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⑭美術館のトイレで授乳【娘といふ神-男50歳の子育て歌日記】 高島 裕

 汗のにほひ、うんちのにほひいきいきと子  
 ははづみをり夏へ行く日々

 娘一歳の夏は、とても暑い夏だった。五十年生きた私も初めて経験するような、四十度の暑さのカンカン照りの日もあったりしたが、娘は体調を崩すこともなく、元気に日々を過ごした。立って歩けるようになり、言葉もどんどん覚えてゆく。

 いろんな場所へ出かけることも増えた。ショッピングモール、ファミレス、美術館、公園…。乳児を連れての外出は、持って行く物が多い。まずはお茶。水分補給が大切だ。落としても振り回しても中身がこぼれないようにできた、ストロー付きの容器が市販されていて、とても重宝する。それにお茶を入れて持って行く。もちろん予備もペットボトルで。お菓子を欲しがった時のために、ベビーせんべいなども欠かせない。乳幼児向けの薄味のお菓子がいい。それから、遊んだり機嫌が悪い時にあやしたりするのに、ぬいぐるみやおもちゃもいくつか持って行く。服を汚した時のための着替えも必要。そしてオムツ。半日一日かけての外出中には、何度かオムツ替えをする。替えのオムツ数枚の他、おしり拭き、使用済みのオムツを入れるためのビニール袋も必要だ。



 幼い子供を連れて外出し、いろんな施設を利用するとき、オムツ替えや授乳ができる場所があるかどうかが大きなポイントになる。

 近年オープンしたショッピングモールでは、オムツ替え・授乳スペースが充実している。キッズ用品売場の奥に、オムツ替えの台がいくつも並び、その脇に個室の授乳スペースが何室もある。そしてその一番手前は父親も入ることができ、私たちは何度もそこを利用して一息入れた。
 一方、産婦人科や小児科のある大きな病院でも、外来の授乳スペースが貧弱に思えるところもある。トイレの前に一室と、待合室の片隅にカーテンで仕切ったスペースがあるだけ。

 また、ある都道府県立の美術館を訪れたときのこと。娘がおっぱいをほしがってむずかり出したので、館のスタッフに「授乳できる場所はありませんか」と尋ねたところ、あたふたした挙句、多目的トイレの中で授乳させられた。「多目的」とはいうものの、トイレで授乳させるのはいかがなものだろうか。乳児を連れての鑑賞を想定していないのだろう。

 乳飲み子を抱えたお母さんたちは、美術館の特別展の告知ポスターを見て「これ、見に行きたい」と思っても、授乳やオムツ替えが心配で、結局、観覧をあきらめているのだろうか。家事育児に追われて「芸術どころではない」のが、正しい母親なのだろうか。私はそうは思わない。幼い生命に向き合って日々悩み、忙殺されているお母さんたちこそ、芸術に触れて心を豊かに耕すべきだ。本人のためにも、子どものためにも。

 乳幼児期を経ずに大人になった人は誰もいない。子育てという人間普遍の営みに必死に向き合っているお母さんたちに、ささやかな楽しみをあきらめさせ、不安と不自由を感じさせて顧みないような、そんな恩知らずな社会であってほしくない。切にそう思う。

 ◆高島 裕(たかしま・ゆたか)◆


1967 年富山県生まれ。
立命館大学文学部哲学科卒業。
1996年「未来」入会。岡井隆氏に師事。
2004 年より8年間、季刊個人誌「文机」を発行。
第1歌集『旧制度』(第8回ながらみ書房出版賞受賞)、『薄明薄暮集』(ながらみ書房)などの著書がある。
第5歌集『饕餮の家』(TOY) で第18 回寺山修司短歌賞受賞 。
短歌雑誌『黒日傘』編集人。[sai]同人。
現代歌人協会会員。