バスケットボール男子の日本代表、馬場雄大選手(アルバルク東京・富山市出身)。代名詞のダンクシュートを武器に、ワールドカップ(W杯)アジア予選では中心選手として躍動し、チームは13年ぶりのW杯出場を決め、2020年東京五輪出場の切符も手にしました。元日本代表の父・敏春さんの背中を追ってバスケに夢中になった富山での少年時代について、母・由香利さんに聞きました。
馬場雄大(ばば・ゆうだい) 元日本代表の父、敏春さんの影響で、富山市清水町小2年生の時にバスケットボールを始める。奥田中から富山第一高に進み、2、3年時に全国高校選抜優勝大会に出場。筑波大では全日本大学選手権(インカレ)の3連覇に貢献し、在学中の2017年にB1のアルバルク東京へ入団。17-18年シーズンのBリーグ新人賞を獲得した。身長198㌢、体重90㌔。1995年11月7日生まれ。

―小さいころは、どんな子どもでしたか。
とにかく負けず嫌いでした。幼稚園の運動会の日でした。朝、ソファに座って考え事をしているので「どうしたの」って聞いたら「お母さん、僕、かけっこで負けないかな?」って言うんです。当時はクラスで一番足が速かったので「きっと大丈夫よ」と答えると「分かった。じゃあ運動会行く」って。
翌年の運動会でも、障害物競争でどうしたら勝てるか私に聞いてくるので「前の人のまねをしたら」とアドバイスしました。当日は、その言葉通りに、前の順番の子が走る様子をじーっと見て研究していました。よほど負けたくなかったんでしょうね。お父さんの気性でしょうか。

―チームに入ってバスケを始めたのは小学生の頃と聞いています。やはりお父さんの影響ですか?
そうですね。雄大が幼稚園の年中の時に、3つ年上の姉が通うバスケットチームで、父親がコーチを務めることになりました。雄大はいつも父親の隣で試合を見ていました。でもじっとしていることができなくて、いつも体育館の内外を遊び回っていましたね。
そのころから父親としては、バスケをやらせたかったのでしょう。野球チームに誘われたこともありましたが、私もかつてバスケをしていて子どもにもさせたかったので、雄大に「(野球チームに行っても)お弁当作らないよ」と言って、行かないよう仕向けました。脅迫ですよね(笑)。

―小学校時代はどのような選手でしたか?
2年生の時に、埼玉県から私の実家がある富山市に引っ越し、奥田ミニバスケットボール教室に入りました。4年生で試合に出られるようになって、その時からポイントゲッターでした。
私はほとんどの試合を見に行きましたね。私が好きだったのはドライブ・イン。センターから相手を抜いていくプレーです。普通なら3歩で行くところを、雄大は2歩で決めます。ファウルも取られないほど速いんです。ただ雄大は(やる気の)スイッチが入るまでぼーっとしているんですよ。スイッチが入ると20点でも一人でひっくり返すんですが…。
6年生ではキャプテンを務めましたが、やっぱりスイッチが入るのが遅い。私のほうがやきもきして怒鳴ってしまい、その声が入るのが嫌でビデオ撮影をやめました。その後は下級生のお母さんから映像をもらってプレーを研究していました。

―日本代表だったお父さんは身長2メートル、馬場選手も現在198センチと長身ですが、やはり小学生の頃から大きかったのでしょうか?
小学校卒業時に、すでに170センチありました。幼稚園の3年間では1カ月に1センチずつ成長したんですよ。4年生で伸び率が悪くなった時、冗談のつもりで夫に「馬場の子が身長伸びなかったらシャレにならんね」と言ったら、「笑いごとじゃない」と怒られてしまいました。夫は、その頃には本気でバスケ選手にしようと思っていたんですね。

当時の夫の口癖は「身長を伸ばせ」「目を悪くさせるな」「早く寝かせろ」。ゲームやテレビは短時間しか見させず、身長を伸ばすために毎晩寝る時にコップ一杯の牛乳を飲ませていました。父親が規則正しい生活だったので、雄大も中学校までは早寝早起きでした。
今思うと、やっぱりたくさん食べていましたね。小学校ぐらいから夕飯には肉と魚を両方入れて、本人はもりもり食べてくれました。でも朝食はそんなに食べず、パンに卵、牛乳が定番メニュー。高校生の時に「朝はお米を食べるのがいい」と聞いて、ごはんを出してみたら「朝からごはんなんて食べられない。勘弁して」と言われ、すぐにパンに戻しました。