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①体は小さいけど活発、負けず嫌い ノルディックスキー距離日本代表、川除大輝さんの両親に聞く【我が家の子育て】

北京冬季パラリンピックのノルディックスキー距離男子立位に、富山市出身の川除大輝さんが出場します。ノルディックスキー距離は「雪原のマラソン」とも呼ばれる過酷な競技。冬季パラには2018年平昌大会に続く2度目の出場で、活躍が期待されています。父、大輔さん(50)と母、美奈子さん(50)のインタビュー前半は、大輝さんの子ども時代を振り返ってもらいました。

平昌冬季パラリンピックの競技が終わり、母・美奈子さんと記念撮影する川除さん(当時、雄山高2年)=2018年3月 
川除大輝(かわよけ・たいき) 2001年、富山市生まれ。富山市大沢野小、大沢野中、雄山高を経て、日本大に進学。日立ソリューションズJSC所属。18年の平昌冬季パラリンピックでは4種目に出場し、混合10キロリレーで4位に入った。21年12月にカナダで行われたワールドカップ(W杯)では男子スプリント立位で4位に入った。身長162センチ。

 

 

「本人のため」と一歩踏み出し 2歳から保育所へ 

大輝は生まれつき両手足の指の一部がありません。生まれた当初は、障害があることで、他人から心ない言葉をかけられるのではないかと不安で、外出できないでいました。しかし「多くの人と関わった方が本人のためになる」と一歩踏み出し、2歳のときから保育所に通わせました。 

​​​ミラージュランドで母(左)と写真に収まる4歳の川除さん =2005年5月 

小さい頃は、いつ障害を自覚するのかドキドキしていました。そして保育所に通っていたとき、私(父)と一緒にお風呂に入っていて、「どうして指がないの?」と聞いてきたので、「お母さんのおなかの中にいるときにけがをしたから」と説明しました。本人は「ふーん」と言っていました。 

サッカー、水泳、そろばん塾も

子どもは、姉2人と大輝の3人きょうだい。障害に関係なく何でもできるようになってほしいと、姉たちと同じように育て、保育所から小学校にかけて、サッカー、水泳、そろばんを習わせました。

 体は小さいけど活発で、このときから負けず嫌いな性格でしたね。一輪車や自転車は、乗れるようになるまで、暗くなってもずっと練習していました。保育所の運動会でも、競技で負けると悔しくて泣きそうな顔になっていました。 

川除さんの子ども時代を振り返る父、大輔さん(左)と母、美奈子さん 

人を引き付ける笑顔 友人に恵まれる 

「多くの人と関わらせたい」と思う一方、やはり小中学校、高校と進学する度、新しく出会う人たちとうまく付き合っていけるのか不安でした。

でも、常に友達に恵まれ、元気に通ってくれました。小さい頃から、いつも笑顔でいるよう伝えてきました。笑顔は、人を引き付けますから。また、あいさつもしっかりするよう教えてきました。それが良かったのかもしれません。 
 
一度だけ、障害を理由に泣いたことがあります。小学校低学年のときで、サッカーの試合中に「指がない」と言われたのが理由でした。

私(父)が「言わしておけ。あいつよりもうまくなって負かしてやれ」と励ますと、泣きながらうなずいていました。

心ない言葉を掛けられることは、他にもあったかもしれませんが、私たちが知っているのはこれだけ。きっと素晴らしい友達に支えてもらってきたのだと思います。 

大沢野小4年のとき、岐阜県で行われた大会に出場した=2010年8月 

中学時代、陸上で心肺機能を鍛える

スキーを始めたのは小学1年のときです。いとこの影響で、地域のスポーツクラブに入りました。親としては「友達と楽しんでくれれば」という軽い気持ちでしたが、もともとスポーツが得意だったこともあり、スキーの面白さにのめり込んでいき、中学校でスキー部に入りました。

足腰や心肺機能を鍛えるため、陸上部とジュニア向けの陸上クラブにも加入していました。それがスキーに生かされ、2、3年生の時には、全国中学校スキー大会に出場しました。

ちなみに、1年の時には、ソチパラリンピックに向けて行われた日本チームの合宿に参加しました。 

インタビュー後半「『絶対、負けるなよ』と鼓舞」はこちら>>>

 



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